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次の文章は、父が亡くなった当時(平成17年)の八王子市医師会会長の沼沢良樹先生からいただいたお言葉です。当時の文章をそのまま掲載しています。
奥富先生を追悼して
奥富武尚先生のご逝去にあたり、八王子市医師会を代表して慎んで心中よりの哀悼の意を捧げます。
先生は昭和46年昭和大学医学部を卒業後、小児科教室へ入局され研鑽を積まれ、町田市民病院小児科勤務を経て、昭和51年6月当地に北野小児科医院を開設されました。以来小児を中心としての地域の医療に大きな貢献を継続されてきました。また先生の能力が評価されて、平成元年4月には医師会理事に選任され、平成5年からは10年の永きにわたり総務という要職を担い、さらに平成15年4月には副会長に選任され、名実共に医師会の中枢として活躍中でした。
この間先生の母子医療への情熱は大変強く、昨今の少子化時代への対応施策としての小児救急医療、小児伝染病対策、子育て支援事業等の行政への協力を通じて、社会、市民への多大な貢献に対し、大いに敬意を表するものであります。中でも特筆すべきは、夜間診療所の内科・外科の2科制から内科・小児科の2科制にする事になった時、
市内の小児科の先生方を説得し、一年365日診療可能な小児科担当医を確保し、平成15年10月から実現にこぎつけたのは、一重に先生のご尽力によるものでした。この様に有能で実行力があり、次期会長候補でもあった貴重な人材を失った事は、現医師会にもまた今後の医師会にとっても、大きな損失であり、なんとも残念としか言い様がありません。
この4月に体調がよろしくなく一時職を休みたい旨のご希望があり、療養に専念され一日も早い復帰を願っておりました所、思い掛けない悲報におどろき、またがっかりしてしまったのが正直な所です。永い事医師会の仕事を一緒に行って来ていますので、つい先日迄会議、会合の後や時にはプライベートに酒をくみ交わし、口角泡を飛ばしながら語り合い、また歌も謡ったものでした。
先生は吉幾三や堀内孝雄の歌がお好きで、また実に上手でマイクを持つ反対の手で、調子を取りながらの熱唱は今でも、目に耳に浮かんで来ます。思い出をたぐれば際限なく、走馬燈の如く現れては消え、現れては消え、切りがありません。
先生、心残りの事は多々あったでしょうが、医師会の事については残った私たちで何とかやって行きます。今となってはどうぞ安らかにお眠りください。
さようなら奥富先生 合掌
会長 沼沢良樹
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父が他界してまもなく3年、その間暗礁に乗り上げていた奥富歯科医院を開設して2年が経とうとしています。この間、様々な人たちと出会いました。そのほとんどが(患者さん含む)父の関係者です。普段、家に戻ると競馬新聞に釘付けとなり週末は府中の競馬場へ、夕方はお酒を飲むのが常となっておりました。そんな父を見ていたので周りの父に対する尊敬の眼差しは、不思議で仕方ありませんでした。
私の出身大学は福島県にあるため1人暮らしをさせてもらい時々帰省すると新しい飲み屋や食べ物屋に連れて行かれる、また卒業後は、都内で1人暮らしをさせてもらい週末に帰宅。また飲み屋や食べ物屋に連れて行かれる。こんな生活を12年近く続けてきました。その間、父が医師会などで大変な仕事をしていたとは思いもよりませんでした。最近は医師としての父の偉大さを開業した今、大変実感しております。
また1人の人間としての父はさらに偉大で、先見の明に長けていたようです。新宿、八王子と多くの場所に2人で食べ歩きをしました。当時は、「飲み食いが好きな父親だなぁ」と思っておりましたが何かを伝えたかったのかなぁと最近涙ながらに思い出します。
早く歯科医として一人前となり奥富武尚の息子ではなく、奥富一義として皆さんに覚えていただけるよう頑張りたいと思います。 |
【 東京霊園七十六区十列十番 】 |
平成20年5月 奥富 一義 |
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